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寺院のご案内 護国寺くん
護国寺案内 開山高麗遥師(かいさんこうらいようし)
護国寺は、島原の乱から十三年後の慶安四年
(一六五一)に、乱後経営のために島原藩主として入封した高力忠信公によって創建されました。
開山は、熊本から招かれた加藤清正公の菩提寺本妙寺第三世本行院日遥上人です。天長地久・鎮護国家期をすべく、「長久山護国寺」と命名され、本妙寺の隠居寺と称されました。日遥上人(余大男)は、朝鮮国慶尚南道河東郡の名家の出身で、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の折、若干十三歳捕われの身となりましたが、加藤清正公にその資質を見い出され一命を取り留めました。
その後、清正公に従って来日し、本妙寺開山日真上人のもとで学問に励み、下総(千葉県)の学問所飯高檀林に学びました。その研鑽の甲斐あって、身延山日乾上人の薫陶を受け、清正公を親代わりに、上人を師として出家しました。江戸幕府が開かれた翌年の慶長十六年(一六○四)日遥上人二十四歳の時です。清正公の死去に伴い熊本に帰り、葬儀を営み、公の恩顧に報いるため、本妙寺第三世を継承しました。四年後には、本妙寺を城内から現在のご廟所の地に移し、今日の基礎を築かれたのです。
上人はとくに書道に秀で、高麗遥師と親しまれ、宗内の三筆に挙げられています。本妙寺在住二十二年、加藤家断絶の悲しみの中、住職を辞し隠棲されたのだが、五十四歳の時、父母の住む故国朝鮮へ帰ろうとしますが、その頃起こった島原の乱などに阻まれ帰国を断念した矢先、島原藩から招かれて護国寺を開山しました。
頓写会などにより清正公信仰を弘め、異国の地日本で法華経弘通に一生をささげ、当寺開山の八年後、ついに故郷に帰ることなく、八十一歳の波乱万丈の生涯を終えられました。当寺では、故郷韓国河東の子孫の人達と現在でも交流を続けています。