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三十番神 護国寺くん
八幡大菩薩 三十番神 三十番神御守護日
旧暦のひと月三十日間、毎日交替で国家と人々を守る日本国内の三十柱の神々を三十番神といいます。
その信仰は、神仏融合思想の起こった平安時代の中頃には既に存在していたようです。
日蓮宗では三十番神信仰を法華神道と呼び、修法(祈祷)の本尊、守護神として大事にしてきました。
その歴史は、日蓮聖人が比叡山遊学中、横川定光院に三十番神が姿を現わし、法華経とその行者を守護すると誓われたことから始まります。実際の信仰が弘まっていったのは、京都に開教した日蓮聖人の孫弟子、日像上人の時代からです。その後、「立正安国論」の神天上思想にもとづく神?信仰として盛んになり、清正公の信仰により、更に西日本を中心に広まっていきました。


蘇生三十番神
蘇生三十番神 護国寺の三十番神は、とくに蘇生三十番神(よみがえりの三十番神)と呼ばれ、今からおよそ二百七十年程前に彫刻された着色木像です。当時の島原藩主第三代松平忠俔公は、島原城主の任を受けた翌年の元文元年(一七三六)に大病を患い、危篤状態の中、霊夢を見ました。
熱にうなされ、夢まぼろしのまま、霊山浄土をさまよっていると、すばらしい金銀をちりばめた御殿の前に出ました。恐る恐る中を覗くと、正装衣冠のやんごとなき方々が三十人、ずらりと並んでいました。
「これはきっと、国主である自分を迎えているに違いない。」とその御殿に入ろうとすると「ここは、そなたの城下に住む市兵衛のような、信仰心の厚い正直者が来るところである。たとえ国主であろうとも、ここへ入ることはまかりならん。速やかに立ち去れ!」と、叱り飛ばされました。と同時に霊夢から覚め蘇生されたのです。
松平忠俔公
翌朝、この夢物語を家臣に話し、市兵衛なるものを探させたところ、同名のものが五人もいました。中でも米屋の讃岐屋市兵衛は、法華経の信者で、心掛けも良く、城下での信用も厚いことが分かりました。早速お城に呼んで尋ねると、市兵衛の祖父は木村一郎左衛門という摂津の武士でしたが、藩主の国替えで浪人になり知人を頼って島原で商いを始め、以来、三代にわたって法華経に帰依し、法華経守護の三十番神像を造ることを家訓とし、やっと市兵衛の代に一体を造る資金がたまったとのことでした。その市兵衛の話に感銘を受けた忠俔公は、自分を追い返してくれたのはこの三十番神に違いないと悟り、そのご恩に報いるため三十番神像とともに、島原藩七万石の禄高に因んだ細字の木版刷法華経七万巻を納めることにしました。そこで、市兵衛をもとの士分に取り立て、木村一郎左衛門を襲名させ、資金を与えて京都に派遣しました。市兵衛は名だたる彫刻家三十人を集め、一人一体づつ一刀三拝して彫らせ、各々が妙技を競い、三年の歳月をかけて完成することができました。又、京都の印刷所に注文した七万巻の法華経は、半分の三万五千巻印刷したところで、京都中の紙が品切れになり、残りはあとで印刷することにして、三重番神像とともに大阪から船で運ばれ当山に納められました。この由緒により、以来、霊験あらたかな肥前島原の「蘇生三重番神」、「よみがえりの三重番神」と呼ばれるようになりました。大祭を正月と八月の十六日に奉修し、大勢の参拝客で賑わってます。 讃岐屋市兵衛