四十歳で脱サラした後、横浜の自宅で布教活動を始めた主人は、十六年目、縁あって山梨の山奥のお寺の住職になりました。
私はお寺を見てびっくり、堂内は蜘蛛の巣だらけ、仏像はどれも破損がひどく「これでは仏様がお気の毒、何とかしなければ」という責任感が湧きました。
地元の老僧から「檀家との人間関係を築くのに十年、復興はその後からだ」と言われましたが待てず、檀家総代に私たちの思いを話したところ、「山は七十以上の高齢者ばかりで過疎化が進む一方、それは無理な話だ」と一掃されてしまいました。
でも諦められません。私は月に数回横浜から通って読経と掃除に励み、住人との会話にも努めました。そして私の預金を全額おろし、まずは仏様を祀る須弥壇(しゅみだん)の修理から着手しました
お寺で頻繁に修行している私の姿を見て、私達への住民の気持ちに変化が現れたころ、働き盛りの女性が定年退職で山に戻ってきました。この人が私達の意向に理解を示し、積極的に寄付を募ってくれたのです。これを機に、本堂はじめ各部屋の修繕が次々と進んでいきました。
その頃の私たちは疲労が重なっていて、帰りの高速道路でヒヤッとする事が続きました。「もう無理をするな」という仏様のご指示に違いないと確信したときに、私に変わって毎月読経と掃除に通う横浜の信徒さんが現れ、さらにお寺に住んで修行したいという尼僧さんまで現れたのです。
こうして予想外の速さで復興が完了した十年目、主人はお寺を地元の僧侶に譲りました。
思えば定年で山に戻った人、私に変わって毎月通ってくれた信徒、お寺で修行を始めた尼僧さん、その他様々なお陰様がありました。どれも実に絶妙のタイミングでした。仏様は法華経の中で『私は使いを遣わす事でこの人を護るであろう』と。