日蓮宗九州教区公式サイト 善日丸くんの「ハロー!仏教」
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仏教トリビア へ〜!知られざる仏教の知識がいっぱい!
すぐにでも人に教えたくなるような、仏教の知識を集めました!
あなたも思わず「へ〜」と言ってしまうこと間違いナシ。

1 我慢(がまん)
語源はサンスクリット語で、「自分のもの、という思い」のことをいい、「我執」や「おごり」という意味です。仏教では、我慢とは苦しみのもとである煩悩の一つとされています。

2 玄関
「玄」は奥深い、「関」は要所のことで、ここを通過すれば悟りはすぐそこにある、という意味から、お寺の入り口をそう呼ぶようになりました。

3 醍醐味(だいごみ)
醍醐とは、本来、牛や羊の乳から作った最上級の乳製品のことです。このことから、乳製品の形容だけでなく、物事を深く経験して得られる「良さ」を比喩するようになり、仏教では、この世で最高の教えの事を指すようになりました。

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4 団扇
殺生が許されないお坊さんは、夏の蚊や虻におおいに悩まされました。そこで発明されたのが団扇。それがやがて暑さよけに風を送る道具となって日本に伝わりました。日本では、それが折り畳み式に改良され、扇子が発明されました。

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5 「仏教」はインドで始まりました。
それが、中国・朝鮮・東南アジアに伝えられ、海を渡り日本に伝来されました。
仏教の基本はブッダ(釈迦・釈尊)の説いた教えとその体験に基づいています。それが、時代を超え、国を越え、今日まで継承され世界中に広まっていきました。

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6 お釈迦様の誕生日は、4月8日です。
日連宗では、お釈迦様の誕生日である4月8日に、「釈尊降誕会」という法会をおこないます。
花で飾られた花御堂に誕生仏がまつられ、甘茶をそそぎながら祝うので、またの名を「花まつり」とか「灌仏会(かんぶつえ)」といいます。

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7 お釈迦様が亡くなった次の日が、日蓮聖人の誕生日です。
お釈迦様は2月15日にお亡くなり(入滅)になりました。そして、日蓮聖人は、1222年の2月16日に誕生されましたが。日蓮聖人が誕生の時、庭先で泉が湧き出し、浜辺には白い蓮の花が咲き乱れ、たくさんの鯛が岸辺に群れ寄ってくるという不思議が起こったといわれています。

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8 「善日丸くん」と「日蓮聖人」は同一人物です。
日蓮聖人の幼少の頃の名前が「善日丸」なのです。お母さんの梅菊さんが、太陽のような暖かい心を持った善い子に育ってほしいと願い、「善日丸」と名付けました。

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9 日蓮聖人は、命に関わる大きな災難に、4回も遭いました。
日蓮聖人も「大難四度、小難は数知れず」と、自身の生涯を語っています。処刑されそうになったり、島流しになったり、日蓮聖人は波乱の生涯をおくりました。災難のいずれもが、より多くの人たちに法華経を広めようとしての結果でした。

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10 「南無妙法蓮華経」の七文字に、法華経の教えがすべて入っています。
皆さんおなじみの「南無妙法蓮華経」という七文字の中には、「法華経」の 教えが集約されており、わたしたちを救う働きを示しています。また、これを称えることによって、わたしたちに正しい法華行者としての自覚がもたらされるとしています。

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11 今生きている私達にとっての「法華経」は?
 日蓮聖人は『観心本尊抄』のなかで「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう」として、お題目を唱えることの重要さを説かれています。

 「釈尊の因行果徳の二法」とは、お釈迦さまが長い時間をかけて行った修行と、その結果得られた徳のことをあらわします。「妙法蓮華経」という五字、すなわち「妙法五字」の中にこそ、お釈迦さまの功徳がすべて含まれているのです。そして「妙法五字」を「受持」すれば、自然とお釈迦さまの功徳をすべて譲り受けることができるのです。お釈迦さまの功徳をすべて受け取るということは、お釈迦さまと同体になるということですから「仏」になる、すなわち「成仏」できるということです。つまり「妙法蓮華経」の五字を「受持」する者は、この世にいながらにして成仏することができる、すなわち「即身成仏」できるわけです。

 それでは「受持する」ということはどういうことでしょうか。日蓮聖人は「妙法五字」の受持は「身口意(しん・く・い)の三業(さんごう)」によって成されると説かれています。「身業(しんごう)」とは、「法華経」の教えを身をもって実践すること、「口業(くごう)」とはお題目を一心に唱えること、「意業(いごう)」とは「法華経」の教えを心から信ずることで、この三つの業が欠けることなく一つになってはじめて「妙法五字」の「受持」となるのです。

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12 どうして日蓮聖人は数々の弾圧を受け続けたのですか?
 当時(鎌倉時代)は日本各地で天災や飢饉・疫病・戦いが相次ぎ、多勢の人々が苦しみ虐げられ死んでしまうという世の中でした。こうした社会において真っ先に犠牲となるのは必ず貧しい民衆であり立場の弱い人々です。一方、幕府の為政者や貴族たちは人々を救うどころか、人々の犠牲の上で権力闘争や豊かな生活に明け暮れていました。その頃の仏教もまた権力者たちの庇護の下で私腹をこやし、苦しむ民衆を顧みることはほとんどありませんでした。

 日蓮聖人はこうした政治や仏教のあり方に強い疑問を持ち、為政者の姿勢を糾す為『立正安国論』を著わして時の執権・北条時頼に献じ、誤った思想や信仰に基づく治世を続けていると必ず国が亡ぶことになるであろうとの警告を発したのでした。このため、そうした主張に反感を持った幕府の役人や権力者側についていた僧侶や念仏者らによって、激しい弾圧を幾度も受けることになります。大難4ヶ度、小難数知れずと聖人自らが書き残している通り、流罪や焼き討ち、襲撃に度々見舞われました。

 清澄寺で最初に法華経信奉の意思を表明した時も、地頭の東条景信ら念仏者によって追われるように追放され、また鎌倉でも松葉ヶ谷(まつばがやつ)にあった草庵を焼かれ、次いで幕府の手によって伊豆に流されます。赦免後、再び故郷安房で東条一派の襲撃に遭い、ついには片瀬江ノ島・龍ノ口で斬首されかかった後、佐渡へと流されることになるのでした。こうした松葉ヶ谷法難・伊豆法難・小松原(東条)法難・龍口法難といった出来事は、しかし結果として日蓮聖人の宗教を一層深めていくことになります。

 日蓮聖人は、信奉する法華経に説かれている「法華経を弘める者には必ず法難が降りかかる」との言葉によって彼らからの弾圧を法難と受け止め、難を受けることは自らが仏の弟子である証明と確信し仏使の自覚を高めていくことになります。そして、ますます勇気を得て経文の通り不惜身命(ふしゃくしんみょう)の精神で仏法に身を捧げ、権力や財宝・名誉に屈することなく立ち向かっていくのでした。日蓮聖人を信奉する人々のほとんどが貧しい民衆や下級武士たちであったのも、その布教のありようをよく物語っています。

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13 日蓮聖人が繰り返し他宗を批判したのはなぜですか?
 日蓮聖人が念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊という言葉を引用して、他宗派に攻撃の舌鋒を加えた最大の理由は、それぞれが拠り処としている経典を比較検討した結果によるものであり、極めて学術的見地に立つものであったのです。もちろん他にも、当時の政治状況や社会事情・宗教事情などからくる諸問題も多々あります。

 同じ釈尊の教えだから、その登山口が違うだけで目指す頂上は同じはず、それを批判するのは偏狭な心だという方は少なくありません。しかし果たしてそうでしょうか。各宗派が依経とする経典は、同じ仏教といいながらも全て異なる思想と環境の中で述作されたものであり、そこに説かれる教義や行法にも違いがあるのです。その内容の相違を見れば、決して同じ頂上を目指しているとは言い難いものがあります。ちょうど様々な方角に向かう地図のように、行き先も歩き方も異なるといえばいいでしょうか。

 日蓮聖人は若い頃から一切経(全ての経典)を熱心に研究し、それぞれの思想を比較検討する中から、法華経が最高最上の教えであり私たちに最もふさわしい経典であることを確信します。中国の天台大師をはじめ多くの僧や仏典研究者の成果を踏まえ、さらに自らの深い思考力と洞察力によって、末法すなわち仏教がすたれ世が乱れる時代においては、この法華経でなければ人々を救済することはできないとの結論に達するのでした。逆に言えば他の経典を信じていては救いはないということになります。

 ところが当時の鎌倉時代においては、流行の念仏宗はもちろんのこと、どの宗派でも法華経が蔑ろにされている。人々の生命を左右する肝心の政治までもが道を誤ろうとしている。このままでは貧窮する民衆の救われる道はないと、反発を恐れず法華経の流布に孤軍奮闘することになります。その過程の中で教義の違いや思想の優劣を示す結果として、他の経典や宗派の問題点を指弾することになるのは当然の成り行きで、いわばどの教えに従えば最も安らぎある社会を築けるかを主張するが故の批判だったともいえるのです。

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